自動車産業史
環境・安全規制
産業政策史

経済学部 経済学科

板垣 暁教授

Akira Itagaki

経済の世界に歴史学の視点を自動車産業史に「新たな息吹」

日本の自動車産業の市場規模は約69兆円で、GDPの約10%を占めるまさに日本の基幹産業です。しかし、自動車産業の発展期とされている1960年~70年代に、実は「危機」を迎えていたことはあまり知られていません。板垣先生は、経済の世界に歴史学の視点を持ちこむことで、自動車産業史に新たな息吹を吹き込みます。

人と人との相互作用に注目して「経済史」を見る
「私の父が多国籍企業を専門とする研究者だったこともあって、幼い頃から学問や研究の世界がわりと身近にありました。小中学生の頃から、テレビのニュースや新聞を一緒に見ていると、それに対する考えを聞かれたり、テレビや新聞とは異なる見方や考え方を教えてもらいました。そのようなものの見方や考え方は今でも貴重な『財産』になっています」

そうした環境で、いつの間にか研究者の道を意識するようになったといいます。
「私が高校生の頃に、『55年体制』の崩壊という歴史的転換点を目の当たりにして、政治に興味を持つようになりました。一方で歴史、とくに戦国時代に興味があったので、歴史学者になれたらいいなあ、とも思っていましたね。ただ、学問として歴史学をやるとなると、単純に好きというだけでは難しいということもだんだんわかってきた。父と相談したり、自分なりに考えたり、受験の結果などを考えて、大学では経済学部に進むことになりました」

それでも歴史への探究心は尽きず、専攻したのは「経済史」でした。
「私はどちらかというと、ミクロ経済とかマクロ経済とか、ストレートな経済理論はあまり得意じゃないんです。一方で、人と人との動きがお互いにどう影響を与え合って、その結果、どういう結末に至るのかという相互作用に興味がありました。そこで経済学部でありながら歴史や政治の観点も交えて研究できる経済史を選びました」
「国産車はいらない」と言われた時代
大学院に入り、人と社会との関わりに注目して選んだテーマが「自動車産業史」でした。
「終戦直後、敗戦国である日本はGHQの支配下におかれ、乗用車生産は禁じられていました。その後、1949年に乗用車の生産制限が解除されます。1950年にはわずか1,594台だった生産台数は、5年後には20,268台、1960年には165,049台と10年で100倍以上の数字に達しました。自動車産業は高度経済成長と軌を一にして急成長を遂げたのです。」

しかし、実は乗用車生産が解禁された直後は、国産車の開発をめぐり、日本国内の考えは揺れていたといいます。
「当時の国産車は、欧米車と比べると性能が低く、価格は高かったんです。そのため、『日本に国産車はいらないんじゃないか』という意見も根強くありました。例えば、交通と安全を管轄する運輸省は、低性能・高価格の国産車ではタクシーなどの運輸業者の経営や、日本の交通の安全を妨げるとして、輸入車を入れるべきという立場でした。一方で通産省は、やはり国内で自動車産業を育てたい。自動車を作れば、素材や部品がたくさん必要となり、多くの産業の発展につながるからです」

この問題は、最終的に通産省の意見が取り入れられ決着しました。

出典:一般社団法人 日本自動車工業会

世界初の自動車排気ガス規制の「舞台裏」
日本では1950年代後半から1960年代に、水俣病をはじめとする公害病や環境問題が、高度経済成長の「闇」としてクローズアップされていきました。
「そうした流れを受けて、1966年に世界初の自動車排気ガス数値規制(以下『66年規制』)が日本で成立します。この『66年規制』は、研究者の間でもあまり注目されてこなかったのですが、今振り返ると、日本の対自動車環境規制政策の原点といえます」

板垣先生は、「66年規制」では運輸省の動きが重要だったと指摘します。
「研究を始めた当時、自動車政策に関する多くの研究は通産省による政策を対象にしており、運輸省の政策にスポットが当たることはありませんでした。しかし、この『66年規制』では運輸省が、排気ガスによる環境汚染の実態調査をもとに、規制値の決定に主導的な役割を果たしていました」

運輸省の排ガス規制案に対して、通産省も反論します。
「規制があまりに強すぎるとコストもかかりますし、燃費など性能は悪くなります。通産省は自動車メーカーとともに実施時期を運輸省案よりも後ろにずらす、あるいは排気ガスの削減基準を緩くするよう主張しました」

最終的に「66年規制」は運輸省案に近い形で決着します。

1966年第51回国会での運輸、通産両省の規制案

資本の自由化という「もうひとつの危機」
「私が一番興味あるのは、ある時代の社会的背景や、それに制約された各プレイヤーの動きや判断、そしてその相互作用によってあるものが生み出されていくプロセスです。『66年規制』においては、当時メディアなどで公害や環境問題が取り上げられ、世論も排ガス規制すべし、という声が強かった。一方で、当時の技術力では実現できるレベルに限界がある。理想と現実の狭間で、運輸省、通産省、メーカーがそれぞれの立場から、適切な着地点を探った結果が『66年規制』だったと言えます。」

これ以降、排ガス規制は段階的になされていきますが、各プレイヤーがそれぞれの立場から自身が最適と思う行動をとることで、結果的にある着地点が導き出される、この傾向は変わりませんでした。
「このようなプロセスでなければ、日本の排ガス規制も自動車産業も全く異なる状況になったかもしれません」

現在、板垣先生は1960年代から70年代における「もうひとつの危機」ーー資本の自由化ーーが自動車業界に与えた影響を研究しています。
「当時、様々な分野で、資本力や生産力で優るアメリカ企業が日本に進出したら、日本企業は太刀打ちできない、そう考えられていました。自動車産業でも、国内の生産・販売システムが外資系の介入により壊されることが懸念されていました。そうした事態に対して、通産省などの関係官庁やメーカーが具体的にそれをどう捉え、対応しようとしたのか、を調べています」

板垣先生は「経済学」という学問の定義をこう語ります。
「限りある資源をどう分配すればみんなが幸福になれるのか、を考える学問です」

自動車産業をめぐる様々な局面とそれをめぐる人々の動きを歴史的視点から丁寧に紐解くことで、自動車産業だけでなく、社会の多くの人が幸福になるためのヒントを明らかにしていこうと考えています。

Profile

経済学部 経済学科
板垣 暁

神奈川県横浜市生まれ、東京都稲城市育ち。東京大学大学院経済学研究科経済史専攻博士課程修了。博士(経済学)。日本経済史・日本経営史という、日本の歴史を経済や経営の視点を中心に分析する学問を専門に研究しています。経済活動や企業活動を歴史的に分析することで、過去から現在における日本社会の実態やその本質に迫っています。『日本経済はどのように歩んできたか』(日本経済評論社、2016年)ほか、著書・論文多数。

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